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聖パウラ寡婦   St. Paula Vidua                    記念日 1月 16日


 裕福な人々は大方貧しい人々の真剣な死にもの狂いの生活を知らぬ。それで別に悪い人でなくても、自然人生に対する真面目さを失い、その日常も兎に角奢侈贅沢を追うて遊戯的享楽的態度に流れやすいのは、否む事の出来ぬ事実である。然しまた一方には、何かの機会に貧民の悲惨な実情に触れて、心に感ずる所があると、一変して熱心な慈善家になる人もある。今日ここに語ろうとするローマの聖女パウラも、やはりそういう一人であった。
 彼女は紀元347年の生まれで、15歳の頃貴族ユリオ家のトクソーチオという青年に嫁ぎ、夫婦仲も睦まじく一男四女を挙げた。家には多くの奴隷達が居て、何事も彼女の意思の儘に、かゆい所へ手の届くよう世話をしてくれるし、優しい夫は心からの愛を注いでくれるし、また交際場裏では女王のようにもてはやされるし、彼女の生活はいわばどこもかしこも花の咲いたような、楽しいものであったのである。
 然し好事魔多しのたとえに漏れず、同棲15年にして彼女の最愛の夫は、夜半の嵐に襲われた花よりももろく、突然死の手に奪われてしまった。この思いがけぬ不幸に始め彼女は断腸の思いで夜も昼も泣き明かした。そしてその涙はやがて涸れたが、彼女の心には、夫を思う真実の深かっただけ、それだけ生々しい痛手がいつまでも残った。今まで楽しかった世の中が、急に何の魅力もない、うつろなものに見えだした。彼女は現世のはかなさを始めて痛切に悟ったのである。
 世の人は財産家で美貌の、まだ30歳にしかならぬこの寡婦を、そのままにしてはおかなかった。諸々方々から降るように再婚の申し込みがあった。けれども亡き人への追慕で満たされている彼女の胸には、そんなものを受け入れる余地はない。彼女は片っ端からきっぱりと断ってしまった。
 ようように心の動揺の静まったパウラに、深い慰めと力とを与えたものは聖福音書と使徒行録とであった。と、ちょうどその頃ローマの執政官の未亡人なる聖マルチェラが、同じ階級の婦人を集め、アヴェンチノの丘に立つ一軒の家を買い入れて修道的共同生活を始めたと聞いたので、彼女も早速その仲間に馳せ参じた所、マルチェラはその悲しみを紛らす一助にもと、彼女を貧民窟に住む人々の慰問に同伴したのである
 まだ見ぬ悲惨な生活振りに接したパウラの驚きはどれほどであったろう!然し彼女は彼等の不幸に唯空しい涙を流すばかりではなかった。どうしたら彼等を救う事が出来るかと、積極的に考え始めたのであった。
 「天主様が私に夫の莫大な遺産をお与え下さったのは、こういう貧しい人々を救えとの思し召しではないのだろうか?それにこういう不幸な人々を助けてあげたら、今は亡き夫も草葉の陰でどんなに喜んで下さるか知れない。」そう思い立つとパウラはもう矢も楯もたまらなかった。彼女は今までの贅を極めた自分の衣服を悉く売り払い、粗食に甘んじ、そして盛んに貧民に施しを始めた。
 その母親の変わった様子を見て驚いたのは子供達である。が、パウラは自分に不自由を忍んでも、子供等に身分相応の教育を授けることは忘れなかった。その内に長女ブレシラは縁あってさる人に嫁いだが、その運命は母同様で、間もなく夫に死に別れ、若くして寡婦となり、母の許に戻ってきたのである。
 似た経験をしただけにこの娘は、母の心を理解する事も深く、それからは志を同じうして共に慈善博愛の事業に力を尽くしたが。天主の思し召しにより、やがて母に先立って世を去った。愛する娘、且つは片腕とも頼む同志を失った、パウラの嘆きと落胆とがどれほどであったかは、今更ここに述べるまでもない。
 その頃ダマソ教皇は聖書学者として名高い聖ヒエロニモをローマに招かれたが、マルチェラはそれをまた無き機会としてアヴェンチノの修養団の為彼に聖書の講義とヘブライ語の教授を請うた。その時パウラも三女オイストキウムと共に、その聖会博士の謦咳に接したが、彼の修道生活に関する講和や、主キリストの御苦難御死去の聖地に就いての談話はいたく母子の者を感動させ、その結果彼等はベトレヘムに赴き、修道生活を行おうと決心するに至ったのである。
 で、彼等は二女が嫁ぐのを待って、四女と年少の長男を然るべき親戚の手に託し、財産を取りまとめてローマを出発、憧れのベトレヘムに行き、そこに男子の為の修道院を一つ、女子の為の修道院を三つ設け、同志を集めて聖ヒエロニモの指導の下に修道にいそしむ事になった。
 そのヒエロニモが言っている「恐らく彼女にも増して子を愛する母はあるまい」との言葉の通り、パウラの我が子に対する愛は、一方ならず深いものであったから、二人の娘や息子等と袂を別つに当たり、その胸中の哀しみはどれ程であったか知れぬが、彼女は天主に総てを献げつくし、完徳の途を雄々しく邁進する為に、涙をふるって彼等と別れたのである。そして身は多忙な修院長の職に就き、他の姉妹達の慈母となり、己を律するに厳しく、他をまつに寛大であった。
 幼きイエズスがやすみ給うた馬槽のある所に、彼女は二十年の長い間倦まずたゆまず犠牲と苦行の生活を送った。かくて主とともなる者のみに見られる、天上の平和を面に宿して、彼女が安らかな大往生を遂げたのは紀元404年の事であった。

教訓

 聖女パウラはもとよりあらゆる善徳に秀でていたであろうが、わけても母性愛に優れていたように思われる。肉親の子に対し母としての義務を遺憾なく果たし、その心身の幸福を計ったばかりでなく、ある時は不幸な貧民の母として彼等を賑わし喜ばせ、後には修道女等の精神的母としてよく指導を全うした所に、彼女の愛徳が燦然と光り輝いている。ああ、現代に於いてもこの聖女の愛に倣う女性が多くあれば、社会の幸福はどれほど増進される事であろう!